各会員の伝統産業紹介
その2
| 江戸漆器 | |||
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江戸漆器は徳川家康が京都の漆工を江戸に招いたのが始まりとされ、さらに各地の優秀な漆工を招いて、腕を競わせ、五代将軍綱吉の時代に塗りの技術が進歩し、完成され、八代将軍吉宗の頃以降は、庶民の間に日常漆器として普及していきました。 今日、江戸漆器は、江戸時代以降の技術と伝統を受け継いできた職人さん達によって、茶道具・座卓をはじめ多様な製品が生産されている。 特に、そば道具やうな重箱などの業務用の生産は東京の特色です。 |
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| 江戸押絵羽子板 | |||
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羽子板は、室町時代の看聞日記という書物に「永享4年(1432年)正月御所において公喞、女官のかたがたが、紅白に分かれて、羽根突きに興じた」と記録があることから、それ以前から作られていたといわれています。 古くは「胡鬼板」とも呼ばれ、正月の羽突き遊びや新年を迎える贈物として用いられてきました。羽子板で諸々の邪気を羽のけて、健やかな成長のお祝いをすることの意味もこめられています。 押絵羽子板は、婦女子の手工芸品として江戸時代に普及した押絵細工が、女子に縁のある羽子板に用いられたものです。 特に江戸時代後期に、歌舞伎の人気役者の舞台姿を写した似顔羽子板が、江戸の人々の人気を得ました。 ※浅草羽子板市・・・江戸の羽子板市では、浅草が最も古く、万治二年頃からと言われています。(毎年12月17日・18日・19日の三日間) |
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| 江戸衣裳着人形 | |||
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江戸衣裳着人形とは、雛人形、武者人形、市松人形など、衣裳を着せつけた人形および衣裳を着せつけてできる人形(裸人形)を総称したものです。 人形は平安時代に新生児の無病息災をを祈るため、枕元においた天児や這子と呼ばれるものが原形ではないかといわれ、京都で発祥したものです。 江戸時代になって、諸大名が参勤交代のの折りに苗字帯刀を許された人形師たちが随行し、その弟子たちが各地に人形を普及しました。さらに元禄年間には江戸の町人文化が発達し、幾多の名士の指導のもとに多くの職人が技術指導を確立し、それぞれの雛人形、五月人形、市松人形、風俗人形などを作り、江戸衣裳着人形の伝統の基礎を築きました。 当時爆発的な人気を博した大阪の歌舞伎役者、佐野川市松の若衆姿を再現した人形がこれまで続いている市松人形の由来です。 |
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| 江戸切子 | |||
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江戸切子とは、ガラスの表面にカットを入れる技術自体のことです。江戸切子は、1834年(天保5年)江戸大伝馬町のびいどろ屋の加賀屋久兵衛が、金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻することを工夫したのが始まりです。明治時代に入って、ヨーロッパのカットグラスの技法が導入され、ガラスの表面に様々な模様を施すガラス工芸の技法が確立され、今日まで伝承されています。 | ||
| 江戸打刃物 | |||
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「日本書記」によれば、敏達天皇(583年)の時代に新羅から鍛冶工が招かれ、鋼(はがね)の鍛造法が伝えられたのが日本の鍛冶の始まりといわれています。武士階級が台頭するにつれて刀剣職人の技術が磨かれ、やがて柔らかい鉄に鋼をつける着鋼法が盛んになり、切れ味の鋭い日本独自の打刃物が発達しました。明治4年に廃刀令が交付され、ほとんどの鍛冶たちは業務用、家庭用打刃物づくりに転業せざるを得なくなり、文明開化とともに伝来した洋風刃物の製作に取り組み、今日まで続く打刃物の基礎が築き上げられました。 | ||